どこまでも空は青く


emiさんのブログから

    超日常

だれでもわたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。

この言葉に秘められたパワーと豊かさを知っていますか。御言葉は淡々と書かれていますが...

自分を捨て、自分の十字架を負うこと。それだけが主ご自身と主のうちにあるすべての霊的祝福を実際に経験する方法。主は十字架を教えるために、私たちが様々な困難を通ることを許される。大きな十字架の経験でその「コツ」を得、日々の小さな事柄においてそれを適用できるようになる。自分を捨てて十字架を負うことがわかり、且つできるようになって行くと、今まで味わったことのない、新しい世界が目の前に開かれる。信仰の世界。

まだ見ていないものを、御言葉の約束ゆえに、すでに得たかのように喜ぶ。「起こる」と主が語ってくださったことを単純に信じ、そうなるんだから、と備えを始める。「これはこうである」という御言葉を単純に信じるなら、振る舞いも自ずと変化してゆく。信仰には行いが伴うって、そういうこと。神が与えてくださった方法が「信仰」でなかったら、私たちはまずすべてを見なければ何も始まらなかったのでしょう。信仰ってすごい。真に信じると、パアーっと目の前が開ける。ヨルダン川に足を踏み入れたときに水が二つに分かれたように、霊的リアリティーの中へ入って行く。

自分の心を主に持って行くことを続け、とにかく主と心にある御言葉に集中してゆくということは、自分がそれまで心を置いていたものすべてが十字架を通るということ。その結果、目の覆いが取り除けられ始め、それまで頭だけの知識だったものが本当に見え始める。

主の愛。
御言葉が本当であること。

そして、信仰がどんなものであるか。

十字架で私は終わり、主が生き始めてくださる。それは1回できたらもう大丈夫、じゃなくて、1年365日、1日中。 信仰も主に属するもの。だから主のいのちに溢れると、信仰も同時にそこに溢れるということなのだろう。

主の豊かさを真に経験するためには、ちゃんと主が定められた手順がある。そして、それを頭ではなくて本当にわかるのは簡単なことではない。主は人を得るために、最高のものを与えるために、その人の体のいのちすら危ういところに持って行かれることを厭わない。主の御心を願う者を、主は一歩一歩導いてくださる。主は十字架ですべてを用意してくださった。それを実際に味わうのは、私たち次第。

昨日から喜びが溢れて止まらない。興奮で頭が痛くなるぐらい。皆既日食どころではない。御言葉は永遠の真理。唯一確かなもの。だけど体が持たないので、主よ、お控え目にどうぞ...(笑

こうなると、同じ御言葉が今までとは全く別物。
言葉では説明しきれないし、言葉を理解しても何も始まらないのだろうけど、十字架の先に何かあるようだ...そう思っていただけたら嬉しい。
十字架は奥義。ものすごく単純なのだけれど、これも経験の中で主が直接教えてくださるのでなければわからない。一人一人、主がその人に与えてくださる困難の中で。でも求める者を、主は必ず導いてくださる。

それぞれに経験は違っても、主が教えたいことは一つ。人が真に主に向いていて、主を中心とする同心円上の交わりが発生するとき、交わりもまた別物。主の油が滴る永遠の祝福の場所。信仰が信仰を生み、喜びが伝染し、関係は能力も立場も何も関係なくフラット。主にあって利害が完全に一致して行く。「一つ」が実際となる。ここで初めて、ヨハネ17章の主のお言葉が実現するわけだ。。。

わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
(ヨハネ17:24)


自分の中で、二つだったものが、ピシッ!と一つになったような感覚。すごく気持ちが良い。
まだまだ足を踏み入れたばかり...これからが本当に楽しみです。
主の真実を感謝します。
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by powder_snow31 | 2009-07-23 20:47 | 未分類

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