どこまでも空は青く


カテゴリ:証し( 9 )



あわれみ

昨年の夏
職場の健康診断でひっかかり
精密検査を受けると 大きな大腸ポリープが見つかった。

切除するため 大きな病院を紹介され
さらに検査を受けたところ
胃の外側にも腫瘍なようなものがあることが分かった。

全く自覚症状もなく

胃カメラも毎年飲んでいた私にとっては晴天の霹靂だった。

流石に落ち込んで
病院の待合室で藁をも掴むつもりで開いた
クリスチャンダイアリーに書いてあったみことばが
私の胸を打った。

たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。とあなたをあわれむ主は仰せられる

涙があふれ 主の愛に満たされた。
主のあわれみに心ふるえた。大丈夫だと確信した。

秋に大腸ポリープを切除、良性だった。

その後 慎重に検査が進められていった。
腫瘍のようなものは大きくなることもなかったが
私の年齢の事もあり
この春 腹腔鏡手術をした。

リンパの一か所が悪性だった。 綺麗に切除できた。

しかし 原発のものが臓器の何処にも見つからず
また何処にも広がってもおらず 極めて珍しいケースだということだった。

術後もすごい勢いで回復した。

また主に助けていただいた。

先日
事の次第を母の主治医に話したところ、
「そんなことあり得ないよ。」と言われるので
「私はクリスチャンなのでイエス様が癒して下さったと思ってます。」と
答えると
「そうとしか言いようのないほど あり得ないことだよ。
 良かったね!」と喜んでくださった。

ハレルヤ、主の聖名を褒めたたえる。

不安がよぎった時
主の祈り 詩篇103篇 イザヤ54の10に助けられた。

主のあわれみにただただ感謝する。
[PR]
by powder_snow31 | 2016-10-13 20:05 | 証し


祈りの学校

マーレーを好きな方から
メッセージが届き とても嬉しかったです

若い時に交通事故で頭を強打してから
あれほど好きだった読書が ままならなくなりました

検査をしても どこにも異常は見られませんが
集中力がなくなり
書いてあることも頭に残っていきません

私は好きだった読書を諦めました

クリスチャンになり

教会の本棚には
マーレーの「祈りの学校」がありました

その本を借りまして
家に帰り 読み始めました

どういうわけか スラスラと読め
書いてあることも呑み込めました

イエスさまが クリスチャンになってから してくださったことでした
[PR]
by powder_snow31 | 2007-09-04 22:56 | 証し


この広い野原いっぱい

「お母さん、明日は尿検査なんだって!」と
小学生になったばかりの息子が学校から帰るなり、
自分の背中より大きなランドセルを下ろして、蓋を開けた。

「あれっ・・。お母さん先生からもらった尿検査の入れ物がない。」と急に元気がない。

「こら、また落としてきたな。」と怒りそうになったけれど、
ある言葉を思い出した。

確か、二人のものが心をひとつに合わせて祈るなら・・って聖書の中に書かれて
いたっけ。
ベソをかきそうになっている息子と二人 床に正座して祈る。
6歳の息子は真剣だ。
そうしたら またある言葉を思い出した。
「さがしなさい そうすればみつかります。」

私は信じていたわけではなかったけれど、やんちゃぼうずの息子の経験によいと思い
二人で自転車に乗り、尿検査キット捜索の旅へと出掛けた。

自転車をユックリ ユックリ 走らせながら、地面の右、左を見て歩く。
「こんな所を通って帰ってきてるの。」と思うような自転車も入れない路地もあって
息子の帰宅姿を想像して、心の中ではニンマリ。

行けども 行けども、その小さな尿検査のキットは、どこにも落ちていない。

とうとう小学校の手前の歩道橋のところまで来てしまった。
さあ、ここまで来たら息子も懲りて、落し物などしないで帰ってくるだろう、
もう、家に帰ろうね・・と言おうとしたその瞬間である。

「お母さん!あったよ!!」と喜び叫ぶ息子の声が。

声のする方を見ると、歩道橋のわきの広大な野原の中から、小さな試験管に似た
尿検査キットを手に満面の笑みを浮かべている息子の姿が。

「どうして見つかったの・・。」
私に主に対する畏れが走った。

そうだ、まず感謝の祈りだ。

国道をビュンビュン車が通り過ぎていく歩道に二人で跪き
見つけてくださった主に感謝を捧げた。
またしても息子は真剣だった。

時間がたてばたつほど私の中には主への畏れが増していった。
「どうして見つかったの・・。なんてすごい神さまなんだろう。」

イエス様が微笑んで私達をみてくださってるような気がした。



まだクリスチャンになって間もないころのことでした。
[PR]
by powder_snow31 | 2006-10-24 08:55 | 証し


わすれられないおくりもの

スーザン・バーレーのこの絵本は、何度読んでも
涙が頬をつたう。

天に召された「あなぐま」と、残された仲間たちの姿に
全体を通し ゆったりとした優しいものが流れ、
年を取るごとに、心が温められる。


***

父がICUに入ってから一週間がたった頃から、
天に召されるのだなという覚悟ができてきた。

もう頭も身体も疲れていて、毎日 其の日が
過ぎていくにまかせていた。

父も昏睡状態に入り
声をかけても、応答できなくなっていた。

召される2日前だった。
眠っている父に、
「お父さん、お父さんの好きな『人生の海の嵐に』を歌おうね。」と語りかけたら
ピクッと眉毛が動いた。
父の耳元で静かに歌い、
「さあ、『主の祈り』を祈ろうね。」と続けて言うと
私の声にあわせて、まるで祈りの言葉をかみ締めるかのように
ユックリ、ユックリと首を振っている。

私自身 心も身体も限界にきていた。
それまで反応が無かった父が、賛美と祈りに応答したことが慰めであり、
天で再び会えることが希望であった。

あれから7年が過ぎようとしている。

かって
アンドリュー・マーレーの「キリストの御霊」を読んだ時
人間的なものからいっさい解放された、
霊とまことの礼拝について書かれている箇所を読み、
そうありたいと願い続けてきた。

7年前、あの惨めさの極限を超え
肉体、魂の力がつきはてた時、父は
主に向かい、ただ主だけを礼拝していたのだと
気がついたのは、ごく最近のことだ。


気がついた時、ただただ泣いた。
声を上げて泣いた。
頬をつたう涙は、温かかった。
慰め主なるお方を、ほめたたえる。

  天にまします我らの父よ
  ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
  御国を来たらせたまえ
  御心の天になるごとく
  地にもなさせたまえ
  我らの日用の糧を 今日もあたえたまえ
  我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
  我らの罪をもゆるしたまえ
  我らをこころみにあわせず
  悪より救いだしたまえ
  国とちからと栄えとは
  限りなくなんじのものなればなり
 (主の祈り)

確かに人には「霊」がある。
信じる者には、キリストが内に住んでくださる。
そして、主との豊かな交わりが持てる。
慰めてくださるお方が、共にいてくださる。 2006. 9.30 記


***

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

          ローマ書 12章 1節(口語訳)
[PR]
by powder_snow31 | 2006-09-30 10:19 | 証し


美しい国

今日は娘の誕生日だ。時の人のあの方と同じ誕生日。

娘は切迫早産の危険の中、
予定日よりも一ヶ月も早く生まれた。

まだ二歳半の息子を置いて、入院すること二週間。
ようやく落ち着いたので一時帰宅していいと言われ
喜んだ夜、破水をしてしまった。

まるで天国から地獄に落ちた気分。

翌朝、出産を迎え、主人と どんなことになるのやらと心配していた。
出産はスムーズにすんだ。
「おめでとうございます、女の子です。」と看護婦さん(当時はまだこのよび方)が言う。

「そんなことはありません。」と私はキッパリと言った。
次は女の子と家族中が望んでいたのに、
どう見ても、男の子が生まれるお腹にしか 見えなかったのだ。
このへんが、私の性格の恐ろしいところである。

その迫力に負け、看護婦さんはもう一度見直し
「いえ、女の子ですよ。」と言った。
瞬間
「バンザイ!やった!やった!やった~!」と叫んだ私の声が
病院の廊下まで聞こえたそうで、主人は嬉しいよりも恥ずかしかったようだ。

体重を量ったら2600㎏もあり、これまた感謝。
小さいのに、母乳も上手に飲めた。

曜日も土曜日の午前中だったので、「通常」の費用ですんだ。切迫早産ということで生命保険の入院給付金もついたり、あと細かいてんでかなり経済的にも助けられた。

娘がお腹にいる時に洗礼を受け、クリスチャン生活を歩みはじめた。
自分にとっては最低だと思われるところに、蓋を開けてみたらこちらが考えている以上の最高のプレゼントが待っている。
私のちっぽけな思考をはるかに超えた方なのだ。
イエス様はきまえの良い、すごい方なんだなぁと しみじみ思った娘の誕生であった。



あっという間に、こんなに大きくなった。

真に「美しい国」にしてほしい・・・。

***

神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、
凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。


         ロマ人への書 第八章二十八節(文語訳)
[PR]
by powder_snow31 | 2006-09-21 18:27 | 証し


炎のランナー

何故、主人公のエリック・リデルは自分が走ることを、神の栄光をたたえることと言ってるのだろう。走れば走るほど、喜びが湧き上がってくると言っているのはどうしてだろう。
実話を元にした映画でのシーンのことなのに、気になっていた。走ることが栄光・・・。

          *         *         *

「結婚することになった。きちんと式だけは挙げたいから
すまないが、おまえの教会の牧師さんに 挙式の件を頼んでもらえないだろうか。」

突然、兄から電話が入った。急に海外勤務を言い渡され
赴任する前に、めぐり合った素敵な女性と結婚することを決めたのだ。

時間はあまりない。大事な結婚式だ、簡単でいいと言ったけれど相手の女性のことが頭をよぎる。主人と相談し、神に祈ってから一つ、一つのことに取り組んで行った。

するとどうだろう、
牧師が心良く引き受けて下さったことからはじまって
衣装のことも、身内だけの披露宴のことも、
何から何まで半日もしないうちに準備できてしまったのである。
それは、まるで すでに用意されていたものを、受け取ったという感覚だった。
披露宴に使う 料亭の予約の日にちを間違えたりもあったが
それも当日まで気がつき、訂正できるように守りがあった。
イエス様が、すべてのことをして下さっている・・・・。

式当日は会堂いっぱいに聖らかなものが流れ、感動でつつまれた。
花嫁さんがとても美しく、兄は幸せものだと思った。

何時も、自分の肉親のように私の両親、兄弟のことを世話してくれる主人にも
心から感謝した。

新婦のご家族の方から、
「感動しました、お世話いただき どうもありがとうございました。」と
随分感謝の言葉をいただいた。
でもそれは私の耳元を通り過ぎ、
天に向かい「イエスさま、どうもありがとうございます。」と言ってるように聞こえた。
私達ではなく、神がすべてのことをなして下さった。
私の内側から喜びが湧いてきた。

そうか、エリック・リデルの喜びってこういうことなのかな。
少しだけ分かるような気がして、そのことが何より嬉しかった。

         *         *         *

あれから10年以上が過ぎたけれど、他愛無い疑問にも優しく応えて下さる
イエス様の魅力はますます尽きない。

かくてわが神は己の富に隨ひ、キリスト・イエスによりて汝らの凡ての窮乏を榮光のうちに補ひ給はん。
願くは榮光世々限りなく、我らの父なる神にあれ、アァメン。


     ピリピ人への書 第四章十九節~二十節(文語訳聖書)
[PR]
by powder_snow31 | 2006-09-19 14:34 | 証し


転機

イエスは、みなの者に言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、
わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」ルカ 9の23、24

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えていただきなさい。 」 ローマ 12の2


        *      *      *

父の発病、闘病、死、その後襲ってきた疲労感。

クリスチャンになってから何度、死に渡されただろう。

自分にあっては何もないことは知っていたはずだった。
それでもまだ、自分の中には、何の良いものがない事を これでもかこれでもかというぐらいに
徹底的に知らされた。自分に失望し、自分に絶望した。
あの救われた当時の、目くるめくような光の日々は何処にいったのだろうか。

そんな頃
インターネットを通し、「KFM」と「地の塩」という二つのサイトに出あった。
毎日のように二つのサイトに書かれている御言葉を味わった。

そして
「KFM」の「記事/著作物」のコーナーの中にある
「真理はあなたがたを自由にする」の記事の中に書かれていた
私たちの古い人は死に渡されたが、依然として私たちの大脳と中枢神経系には古い認知行動パタンが残るという内容が、私の中に光をもたらした。

肉体の一部である脳は、まだ贖われていないので、そこから来る古い人の思いは実際ではない。それに捉われる必要もなく、悩む必要もないのだ。見えるところの私がどうであれ、また自分がどう感じようが、私はすでに死んでおり、 私はもはや、「新しい人」なのである。それは「真理」だ。
ただ御言葉に書いてある通りに信じれば、主ご自身の真実が実体をなしてくださる。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」 2コリント 5の17

タイミング良く、私の全人格を否定されるという出来事がおこった。
ただちに
記事で読んだことを実行してみた。

キリストの十字架の贖いによって
与えられた「義」を確認し、ローマ書8章1、2節を声に出して言ってみた。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 」ローマ8の1・2


御言葉が、瞬時に安息の領域へと導いた。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
              へブル 4の12



私に転機が訪れた瞬間であり、長年思い巡らせていたルカ9の23・24、ローマ12の2への扉が開かれた訪れでもあった。


[PR]
by powder_snow31 | 2004-10-17 18:48 | 証し


父を天に送り

私の父は四年前に天に召された。

家の教会だったところに「宣教師」さんが来てくださることにな
り、まだ未信者だった父は 教会にする家探しから積極的に手
伝った。
宣教師さんが来てくださる予定の日の直前に
いい物件がみつかった。
父はしみじみと「神さまってすごいな。」と言っていた。
教会ができ 父が一人目の受洗者となった。

教会も順調に成長していった
在る日 父は突然倒れ 「脳梗塞」になった。
半年ほどすると「ボケ」の症状があらわれ
退院後 脳血栓の母との二人ぐらしとなり
本当に瞬間、瞬間 神に頼らなければならなくては
生活できなかった。でも たしかに「おりにかなった助け」を
主はご用意してくださった。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 ヘブル 4章16節

4年前にいよいよ父が悪くなり
半年間の入院の後、天に召された。
最後の3週間は骨と皮状態でICUの中だった。
病院に面会にいくのに 深呼吸してからじゃなきゃ行けない
ほど 付き添っていた私もボロボロだった。
「どうして あんなに あなたに従っていた父に あなたはこ
うされるんですか!」
何度も泣いて祈った。

召される一週間前だったろうか。
母と面会に行くと
ICUの看護婦さんが 母の側に寄ってきて 話しはじめた。

「***教会の方ですよね。この間 牧師さんが面会にこられ
たのでわかりました。S市の姉がクリスチャンでこちらに遊びに
きてくれたとき 一度 ***教会に行ったことがあるんです

でも引越しされたんですか。今の場所はどこでしょうか。」

母は看護婦さんとしばらく話していた。母は彼女が一度教会に
来られたことをおぼえていなかった。

ICUをでると 母は落ち着いた声で 話しはじめた。
「昨日の朝 今と同じことを幻でみたの。看護婦さんみたいな
人が私に教会の場所を尋ねるの。」

その後 父が天に召され
家に遺体を運び 、来客が来る前に 家の中を整理していた
ら ポロッと父の「手帳」が出てきた。
母も 父がそんなものを書いているとは知らなかった。

「今日***さんが教会に来られました。***さんが救われ
るように祈ります。」と書いてある。

***さんとは 母に話しかけたICUの看護婦さんの名前だ。
母と二人でただ驚くばかりだった。
私は「今はわかりませんがこれでいいのですね。」と主に言った。
信仰があったわけでもないし、力もなかった。

何年間も悲しく、辛かった。でもじょじょに主は私を癒し続けて下さった。そして これからも癒し続けて下さる。 2004年9月10日・記

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
          ヨハネ 12章24節
[PR]
by powder_snow31 | 2004-09-10 21:35 | 証し


救いの証し

私が聖書を初めて手にしたのは中学生の時だ。放課後、校門の前で3人の方が聖書配布をされていた。誰も断る人もなく、私もつられて受けとった聖書だった。パラパラとめくってはみたものの、なかなか読みこなすこともできず、そのまま自分の部屋の本棚の片隅に置かれることとなった。

今思うと不思議だが、当時は合唱に熱心な教師によって公立の中学校であるのにもかかわらず、「ハレルヤコーラス」を卒業式に歌うことになった。全校あげての4パートに別れての練習を毎日のようにやっていた。「キング・オブ・キングス、ロード・オブ・ロード」と。

またテレビではロードショーブームで良く洋画が放映されていた。その中で観たのが「キング・オブ・キングス―偉大な生涯の物語―」だった。印象に残ったシーンはイエス・キリストが墓から甦り復活したというニュースが大変な喜びと共に口から口へ伝わり、その喜びが泉のように湧きあがるところだ。「復活だ!」という言葉が私の中にも喜びをもたらし、訳がわからないままに深い感動を覚えたものだ。

そうして静かにイエス・キリストなる御方が私の心にひっかかっていった。

誰もが一度はこの全宇宙は一体どうなっているのであろうか、その中で自分が何ものであるのか、また生きていく意味とは何であるのかと考えたことがあるのではないだろうか。私は生まれた時から内向的な性格で、よく夜空の星を見上げてはそんなことを考えていたタイプだった。自分の中にあるどうしようもない孤独と不安。遊び友達にはことかかなかったが本当の自分を理解してくれる人はいないと心の中では思っていた。

自由勝手な生き方をしていた19才の秋の頃だった。一日数冊の本を読まなくては気がすまない少し活字中毒者なような時期でもあった。その日に限って 手元に読むべき本が一冊もないのである。とにかく字の書いてある本なら何でもいいと思い、本棚の片隅にあった聖書を取り出し読み出した。そしてマタイ6章25節まできた時

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」

のみ言葉が私の心を開いた。「思いわずらわなくてもよい生き方があるんだ・・。」

続けて読んでみた。34節

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

とある。「なんて自由な生き方なんだろう。人にも自分自身にもどんなものにも束縛されず、自由そのものじゃないか。こんな風に生きられたらどんなに楽だろう。」と思った。結局、その聖書を最後まで読んでみた。

「清らかなクリスチャン生活など、どだい私にとっては無理な話だけれど、これぐらいは許されるだろう。」というほんの軽い気持ちから、最後のページの「キリストを私の救い主として受け入れる私の決意」のところに自分の名前を書いてみた。それは誰も知らないことだった。

聖書に記したサインのことも忘れ、また月日がたっていった。もうすぐ24歳になるというある日、私は仕事帰りで疲れて歩いていた。横断歩道を渡りかけていた時、時速80キロのスピードで走ってきた乗用車に思いっきり跳ねられるという事故に遭ってしまった。運転していた青年も、目的地に急ぐあまり私のことが確認できず、双方がお互いを確認した時には、時すでに遅しの状態でおこってしまった事故だった。

跳ね飛ばされた私はアスファルトの上に全身を叩き付けられた。頭からは大量の出血、失神している私を見て、その場にいた人は万が一助かったとしてもこの人はどうなるのだろうと思ったらしい。

4時間後病院のICUの中に私はいた。検査の結果は頭皮裂傷と、右肩の鎖骨の部分を大きく脱臼するだけですんだことをが分った。誰もが奇跡だといった。神を信じない人も、なんらかの力が働いたことを信じた。ただ私だけが戸惑っていた。生きていることが嬉しくて涙を流しながらも、何故こんな者を助けてくれたのだろうか。いいことをしていて助かるのなら分る、でも私はいい人間ではない。どうして助かったのだろう・・・。

入院生活を送っていたある日、3人の方がたが私を見舞ってくださった。一人は中学校からの先輩のSさん、あとの二人は高校の先輩にあたるが面識のないご夫妻だった。それぞれが私の遠方に住んでいる友人達から、「心配なので見舞いに行ってほしい。」と頼まれたのである。その方がたが「今日こそお見舞いに行こう。」と思いたち、私の入院先に向かって歩いていたところ、街の中でバッタリ鉢合わせになったそうだ。行き先を尋ねあうと、私の所であり、またそれぞれが違う方から頼まれたという不思議に、これは神の導きと、喜んできてくださった。その3人はクリスチャンだったのである。

熱心にイエス・キリストのことを語ってくださったのに、素直でない所のある私は、すんなりと受け入れることはできなかった。しかし、心の中では自分が、こんなひどい事故に遭ったのに助かったことと、3人のクリスチャンの方がたが不思議な方法で見舞ってくださったことを、偶然とはいえないことであることは分らされいた。

丁度その頃、真理を求めいろいろな宗教を渡り歩いていた母が、それまで通っていた異端と言われる宗教団体に疑問を持ち始めていた頃だった。私は退院後Sさんに誘われ、Sさんの教会で上映した「ナザレのイエス」の映画を母と二人で観に行った。

見終わった後、母は通っていた宗教団体と決別することを決めた。救いはイエス・キリストの十字架の贖いにのみあるのだと悟ったのだという。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 ローマ3章24節

その後、母はSさんと共に教会に通いクリスチャンとなった。

数年後結婚し、私は夫の両親と同居することとなった。価値観の全く違う環境に入り、また息子も生まれ、私はどうしようもない心の葛藤を覚え始めた。努力してもどうにもならない壁に、初めてぶつかったのである。先にクリスチャンになった実家の母に相談すると、教会に行くことを勧められた。私の嫁ぎ先のすぐ側に教会があったのだ。

私は何度かためらいながらも、ようやくの思いで教会の門をくぐった。知り合いは誰もいなかったが、私を待ってたものは、中学校で歌ったあの懐かしい「ハレルヤコーラス」だった。その教会は毎週の礼拝で4パートに別れ、ハレルヤコーラスを歌っていたのだった。その懐かしさも手伝い、その教会に通うことになった。

教会に通いはじめる前から、イエス・キリストこそ真の神であるのではないかと信じるようになっていた。しかし毎週日曜日に教会に通うこと、清らかな生活をするクリスチャンなど私は絶対になれないと思っていたし、なるつもりもなかった。そんな気持ちであったのにもかかわらず、教会通いは順調に続いていった。礼拝が終わったらすぐ家に帰る求道者の私には、教会で親しくなる人もいなかった。

牧師のメッセージを聞いて、いろんなことが分りかけてきた頃、私はまたしても事故に遭ってしまった。まだ一歳半の息子を前に乗せ、自転車で横断歩道を渡っていた時だった。信号は青で3分の2を渡り終えた時、ゆっくりと左折してきた乗用車が私達の方に突っ込んできたのである。

その日は強い西日が差しており、白内障を患っている高齢の運転手には私達の姿は全く見えていなかったのだった。幸い息子はかすり傷、私は腰の骨を折っただけですんだ。腰の骨といっても、そのままほっておいてもよい箇所だった。私はかなりショックを受けた。24歳の事故以来、神経質なぐらい気をつけていたのにこんなことが起きるなんて。これから起ころうとすることなど、自分自身で予測をすることもできないし、人の生死も自己の努力ではどうにもならないのだと改めて考えさせられた。

実は私がまだ赤ん坊の時にも、事故に遭っている。兄が私を家の近くの堤防にそり滑りに連れて行き、そりに私を乗せ、思いっきりそりを滑らせた。たまたま堤防の下を通ったトラックに、私はそりごと巻き込まれてしまった。うまくクボミにでも入ったのだろうか、あとかたもなくそりは壊れてしまったのに、私はかすり傷もなく無事だったと知らされている。これらのことを思い返してみても、何かに守られているとしか思えない。でも、こんなどうしようもない人間をどうしてそんなにも救ってくれるのだろうか。救ってくれたのは真の神であるイエス・キリストしかいない。イエス・キリストとはそういうお方なのだろうか・・・。 

         「神は愛なり。」1ヨハネ4章16節

という聞きなれている聖句の「愛」が私の思考をはるかに超えたものであることに思いを巡らされた。完全な愛・・。

クリスマスも近づいたある日、夜眠ろうとすると突然幼い時から犯してきたあらゆる罪が頭の中を駆け巡った。今まで罪だと思っていなかった、心の中の醜い思いも罪となって現された。そしてそれにもかかわらずイエスは私をどこまでも 救い続けたという事実。

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 」エレミヤ書31章3節

「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。」1列王記18章21節

眠れない夜が三日も続いた。「私は罪びとであり、キリストの赦しが必要である。」ともう認めるしかなかった。イエス様の前で悔い改め、私はクリスチャンとしての人生を歩むことを選択した。顔は涙でグチャグチャになった。


「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」2テモテ2章13節


頑固で理屈っぽく素直でなかった私を、なんとねんごろに救いの道に導いてくださったのだろうと何時も思う。

クリスチャンになり色々なことも起こってくるが、イエス様は一つ一つ手を取り足を取るがごとくに行く道を教えてくださる。神の計り知れないご計画の中をただ恵みによって生かされていることを覚え感謝の毎日だ。

中学生の時、憧れを持って観た「復活」の喜び、19歳の時望んだ「キリストにある自由への道」それらを、真実なるお方が 真実であるがゆえに導いてくださる。なんと幸いな道、喜びの道であろうか。内に神が住まわれ、栄光の望みとなってくださる、くめどもつきない井戸を与えてくださった。何と厳粛で厳かなことであろうか。感謝を捧げるのみである。

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」ローマ8章2節

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 ガラテヤ2章20節
[PR]
by powder_snow31 | 2004-07-19 07:10 | 証し

    
思いつくままに
by powder_snow31