どこまでも空は青く


炎のランナー

何故、主人公のエリック・リデルは自分が走ることを、神の栄光をたたえることと言ってるのだろう。走れば走るほど、喜びが湧き上がってくると言っているのはどうしてだろう。
実話を元にした映画でのシーンのことなのに、気になっていた。走ることが栄光・・・。

          *         *         *

「結婚することになった。きちんと式だけは挙げたいから
すまないが、おまえの教会の牧師さんに 挙式の件を頼んでもらえないだろうか。」

突然、兄から電話が入った。急に海外勤務を言い渡され
赴任する前に、めぐり合った素敵な女性と結婚することを決めたのだ。

時間はあまりない。大事な結婚式だ、簡単でいいと言ったけれど相手の女性のことが頭をよぎる。主人と相談し、神に祈ってから一つ、一つのことに取り組んで行った。

するとどうだろう、
牧師が心良く引き受けて下さったことからはじまって
衣装のことも、身内だけの披露宴のことも、
何から何まで半日もしないうちに準備できてしまったのである。
それは、まるで すでに用意されていたものを、受け取ったという感覚だった。
披露宴に使う 料亭の予約の日にちを間違えたりもあったが
それも当日まで気がつき、訂正できるように守りがあった。
イエス様が、すべてのことをして下さっている・・・・。

式当日は会堂いっぱいに聖らかなものが流れ、感動でつつまれた。
花嫁さんがとても美しく、兄は幸せものだと思った。

何時も、自分の肉親のように私の両親、兄弟のことを世話してくれる主人にも
心から感謝した。

新婦のご家族の方から、
「感動しました、お世話いただき どうもありがとうございました。」と
随分感謝の言葉をいただいた。
でもそれは私の耳元を通り過ぎ、
天に向かい「イエスさま、どうもありがとうございます。」と言ってるように聞こえた。
私達ではなく、神がすべてのことをなして下さった。
私の内側から喜びが湧いてきた。

そうか、エリック・リデルの喜びってこういうことなのかな。
少しだけ分かるような気がして、そのことが何より嬉しかった。

         *         *         *

あれから10年以上が過ぎたけれど、他愛無い疑問にも優しく応えて下さる
イエス様の魅力はますます尽きない。

かくてわが神は己の富に隨ひ、キリスト・イエスによりて汝らの凡ての窮乏を榮光のうちに補ひ給はん。
願くは榮光世々限りなく、我らの父なる神にあれ、アァメン。


     ピリピ人への書 第四章十九節~二十節(文語訳聖書)
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# by powder_snow31 | 2006-09-19 14:34 | 証し


聖歌 206番

 しみも咎も汚れもなき 
          子羊わが主は屠られしや

 こはわがため十字の上に
          釘もて裂かれし御身体なり

 こはわがため呪い受けて
          流させ給いし君が血なり

 こはわがため与え給う
          命の糧なり飲み物なり

 懐かしくも見失せし主は
          まもなく再び来たり給わん

 その時まで十字架を負わん
          救いの恵みを喜びつつ
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# by powder_snow31 | 2006-08-30 20:42 | 賛美


讃美歌Ⅱ194番 

おお み神をほめまつれ つきぬ生命あたえんと
ひとり子をも惜しみなく 世びとのためくだしたもう

ほめよ ほめよ 神の愛を
うたえ うたえ 主のみわざを
そのみわざにあらわれし 父なる神の めぐみを

主はあがない成し遂げて み名にたよる人々の
罪はいかに深くとも 赦しあたえたすけたもう

ほめよ ほめよ 神の愛を
うたえ うたえ 主のみわざを
そのみわざにあらわれし 父なる神の めぐみを

げにとおときみ救いよ いとくすしきみ教えよ
たぐいもなきよろこびは ふたたび主にまみゆる日

ほめよ ほめよ 神の愛を
うたえ うたえ 主のみわざを
そのみわざにあらわれし 父なる神の めぐみを

***

それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、
すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。


   ヨハネ傳 第三章十六節
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# by powder_snow31 | 2006-08-19 14:53 | 賛美


祈り

天の父よ
御霊にある あなたの新しいいのちのゆえに感謝します。

私は 私の魂のすべての要素を
すでに御霊に結合されている
私の霊に服させることを願います。

私は 私の情緒を霊に服させることを選びます。

私は 私の意志を霊に服させることを選びます。

そして 私はこれをなす時に
あなたの聖霊が 私の霊を生かし
あなたを お喜ばせすることができるように
私の霊は、私の思い 感情 意思を制御することを信じます。

(コリン・アーカート   「キングダム・フェロシップ・バイブル・カレッジ*プラクティカルコース」より)
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# by powder_snow31 | 2004-11-26 13:39 | 祈り


転機

イエスは、みなの者に言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、
わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」ルカ 9の23、24

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えていただきなさい。 」 ローマ 12の2


        *      *      *

父の発病、闘病、死、その後襲ってきた疲労感。

クリスチャンになってから何度、死に渡されただろう。

自分にあっては何もないことは知っていたはずだった。
それでもまだ、自分の中には、何の良いものがない事を これでもかこれでもかというぐらいに
徹底的に知らされた。自分に失望し、自分に絶望した。
あの救われた当時の、目くるめくような光の日々は何処にいったのだろうか。

そんな頃
インターネットを通し、「KFM」と「地の塩」という二つのサイトに出あった。
毎日のように二つのサイトに書かれている御言葉を味わった。

そして
「KFM」の「記事/著作物」のコーナーの中にある
「真理はあなたがたを自由にする」の記事の中に書かれていた
私たちの古い人は死に渡されたが、依然として私たちの大脳と中枢神経系には古い認知行動パタンが残るという内容が、私の中に光をもたらした。

肉体の一部である脳は、まだ贖われていないので、そこから来る古い人の思いは実際ではない。それに捉われる必要もなく、悩む必要もないのだ。見えるところの私がどうであれ、また自分がどう感じようが、私はすでに死んでおり、 私はもはや、「新しい人」なのである。それは「真理」だ。
ただ御言葉に書いてある通りに信じれば、主ご自身の真実が実体をなしてくださる。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」 2コリント 5の17

タイミング良く、私の全人格を否定されるという出来事がおこった。
ただちに
記事で読んだことを実行してみた。

キリストの十字架の贖いによって
与えられた「義」を確認し、ローマ書8章1、2節を声に出して言ってみた。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 」ローマ8の1・2


御言葉が、瞬時に安息の領域へと導いた。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
              へブル 4の12



私に転機が訪れた瞬間であり、長年思い巡らせていたルカ9の23・24、ローマ12の2への扉が開かれた訪れでもあった。


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# by powder_snow31 | 2004-10-17 18:48 | 証し


父を天に送り

私の父は四年前に天に召された。

家の教会だったところに「宣教師」さんが来てくださることにな
り、まだ未信者だった父は 教会にする家探しから積極的に手
伝った。
宣教師さんが来てくださる予定の日の直前に
いい物件がみつかった。
父はしみじみと「神さまってすごいな。」と言っていた。
教会ができ 父が一人目の受洗者となった。

教会も順調に成長していった
在る日 父は突然倒れ 「脳梗塞」になった。
半年ほどすると「ボケ」の症状があらわれ
退院後 脳血栓の母との二人ぐらしとなり
本当に瞬間、瞬間 神に頼らなければならなくては
生活できなかった。でも たしかに「おりにかなった助け」を
主はご用意してくださった。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 ヘブル 4章16節

4年前にいよいよ父が悪くなり
半年間の入院の後、天に召された。
最後の3週間は骨と皮状態でICUの中だった。
病院に面会にいくのに 深呼吸してからじゃなきゃ行けない
ほど 付き添っていた私もボロボロだった。
「どうして あんなに あなたに従っていた父に あなたはこ
うされるんですか!」
何度も泣いて祈った。

召される一週間前だったろうか。
母と面会に行くと
ICUの看護婦さんが 母の側に寄ってきて 話しはじめた。

「***教会の方ですよね。この間 牧師さんが面会にこられ
たのでわかりました。S市の姉がクリスチャンでこちらに遊びに
きてくれたとき 一度 ***教会に行ったことがあるんです

でも引越しされたんですか。今の場所はどこでしょうか。」

母は看護婦さんとしばらく話していた。母は彼女が一度教会に
来られたことをおぼえていなかった。

ICUをでると 母は落ち着いた声で 話しはじめた。
「昨日の朝 今と同じことを幻でみたの。看護婦さんみたいな
人が私に教会の場所を尋ねるの。」

その後 父が天に召され
家に遺体を運び 、来客が来る前に 家の中を整理していた
ら ポロッと父の「手帳」が出てきた。
母も 父がそんなものを書いているとは知らなかった。

「今日***さんが教会に来られました。***さんが救われ
るように祈ります。」と書いてある。

***さんとは 母に話しかけたICUの看護婦さんの名前だ。
母と二人でただ驚くばかりだった。
私は「今はわかりませんがこれでいいのですね。」と主に言った。
信仰があったわけでもないし、力もなかった。

何年間も悲しく、辛かった。でもじょじょに主は私を癒し続けて下さった。そして これからも癒し続けて下さる。 2004年9月10日・記

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
          ヨハネ 12章24節
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# by powder_snow31 | 2004-09-10 21:35 | 証し


救いの証し

私が聖書を初めて手にしたのは中学生の時だ。放課後、校門の前で3人の方が聖書配布をされていた。誰も断る人もなく、私もつられて受けとった聖書だった。パラパラとめくってはみたものの、なかなか読みこなすこともできず、そのまま自分の部屋の本棚の片隅に置かれることとなった。

今思うと不思議だが、当時は合唱に熱心な教師によって公立の中学校であるのにもかかわらず、「ハレルヤコーラス」を卒業式に歌うことになった。全校あげての4パートに別れての練習を毎日のようにやっていた。「キング・オブ・キングス、ロード・オブ・ロード」と。

またテレビではロードショーブームで良く洋画が放映されていた。その中で観たのが「キング・オブ・キングス―偉大な生涯の物語―」だった。印象に残ったシーンはイエス・キリストが墓から甦り復活したというニュースが大変な喜びと共に口から口へ伝わり、その喜びが泉のように湧きあがるところだ。「復活だ!」という言葉が私の中にも喜びをもたらし、訳がわからないままに深い感動を覚えたものだ。

そうして静かにイエス・キリストなる御方が私の心にひっかかっていった。

誰もが一度はこの全宇宙は一体どうなっているのであろうか、その中で自分が何ものであるのか、また生きていく意味とは何であるのかと考えたことがあるのではないだろうか。私は生まれた時から内向的な性格で、よく夜空の星を見上げてはそんなことを考えていたタイプだった。自分の中にあるどうしようもない孤独と不安。遊び友達にはことかかなかったが本当の自分を理解してくれる人はいないと心の中では思っていた。

自由勝手な生き方をしていた19才の秋の頃だった。一日数冊の本を読まなくては気がすまない少し活字中毒者なような時期でもあった。その日に限って 手元に読むべき本が一冊もないのである。とにかく字の書いてある本なら何でもいいと思い、本棚の片隅にあった聖書を取り出し読み出した。そしてマタイ6章25節まできた時

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」

のみ言葉が私の心を開いた。「思いわずらわなくてもよい生き方があるんだ・・。」

続けて読んでみた。34節

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

とある。「なんて自由な生き方なんだろう。人にも自分自身にもどんなものにも束縛されず、自由そのものじゃないか。こんな風に生きられたらどんなに楽だろう。」と思った。結局、その聖書を最後まで読んでみた。

「清らかなクリスチャン生活など、どだい私にとっては無理な話だけれど、これぐらいは許されるだろう。」というほんの軽い気持ちから、最後のページの「キリストを私の救い主として受け入れる私の決意」のところに自分の名前を書いてみた。それは誰も知らないことだった。

聖書に記したサインのことも忘れ、また月日がたっていった。もうすぐ24歳になるというある日、私は仕事帰りで疲れて歩いていた。横断歩道を渡りかけていた時、時速80キロのスピードで走ってきた乗用車に思いっきり跳ねられるという事故に遭ってしまった。運転していた青年も、目的地に急ぐあまり私のことが確認できず、双方がお互いを確認した時には、時すでに遅しの状態でおこってしまった事故だった。

跳ね飛ばされた私はアスファルトの上に全身を叩き付けられた。頭からは大量の出血、失神している私を見て、その場にいた人は万が一助かったとしてもこの人はどうなるのだろうと思ったらしい。

4時間後病院のICUの中に私はいた。検査の結果は頭皮裂傷と、右肩の鎖骨の部分を大きく脱臼するだけですんだことをが分った。誰もが奇跡だといった。神を信じない人も、なんらかの力が働いたことを信じた。ただ私だけが戸惑っていた。生きていることが嬉しくて涙を流しながらも、何故こんな者を助けてくれたのだろうか。いいことをしていて助かるのなら分る、でも私はいい人間ではない。どうして助かったのだろう・・・。

入院生活を送っていたある日、3人の方がたが私を見舞ってくださった。一人は中学校からの先輩のSさん、あとの二人は高校の先輩にあたるが面識のないご夫妻だった。それぞれが私の遠方に住んでいる友人達から、「心配なので見舞いに行ってほしい。」と頼まれたのである。その方がたが「今日こそお見舞いに行こう。」と思いたち、私の入院先に向かって歩いていたところ、街の中でバッタリ鉢合わせになったそうだ。行き先を尋ねあうと、私の所であり、またそれぞれが違う方から頼まれたという不思議に、これは神の導きと、喜んできてくださった。その3人はクリスチャンだったのである。

熱心にイエス・キリストのことを語ってくださったのに、素直でない所のある私は、すんなりと受け入れることはできなかった。しかし、心の中では自分が、こんなひどい事故に遭ったのに助かったことと、3人のクリスチャンの方がたが不思議な方法で見舞ってくださったことを、偶然とはいえないことであることは分らされいた。

丁度その頃、真理を求めいろいろな宗教を渡り歩いていた母が、それまで通っていた異端と言われる宗教団体に疑問を持ち始めていた頃だった。私は退院後Sさんに誘われ、Sさんの教会で上映した「ナザレのイエス」の映画を母と二人で観に行った。

見終わった後、母は通っていた宗教団体と決別することを決めた。救いはイエス・キリストの十字架の贖いにのみあるのだと悟ったのだという。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 ローマ3章24節

その後、母はSさんと共に教会に通いクリスチャンとなった。

数年後結婚し、私は夫の両親と同居することとなった。価値観の全く違う環境に入り、また息子も生まれ、私はどうしようもない心の葛藤を覚え始めた。努力してもどうにもならない壁に、初めてぶつかったのである。先にクリスチャンになった実家の母に相談すると、教会に行くことを勧められた。私の嫁ぎ先のすぐ側に教会があったのだ。

私は何度かためらいながらも、ようやくの思いで教会の門をくぐった。知り合いは誰もいなかったが、私を待ってたものは、中学校で歌ったあの懐かしい「ハレルヤコーラス」だった。その教会は毎週の礼拝で4パートに別れ、ハレルヤコーラスを歌っていたのだった。その懐かしさも手伝い、その教会に通うことになった。

教会に通いはじめる前から、イエス・キリストこそ真の神であるのではないかと信じるようになっていた。しかし毎週日曜日に教会に通うこと、清らかな生活をするクリスチャンなど私は絶対になれないと思っていたし、なるつもりもなかった。そんな気持ちであったのにもかかわらず、教会通いは順調に続いていった。礼拝が終わったらすぐ家に帰る求道者の私には、教会で親しくなる人もいなかった。

牧師のメッセージを聞いて、いろんなことが分りかけてきた頃、私はまたしても事故に遭ってしまった。まだ一歳半の息子を前に乗せ、自転車で横断歩道を渡っていた時だった。信号は青で3分の2を渡り終えた時、ゆっくりと左折してきた乗用車が私達の方に突っ込んできたのである。

その日は強い西日が差しており、白内障を患っている高齢の運転手には私達の姿は全く見えていなかったのだった。幸い息子はかすり傷、私は腰の骨を折っただけですんだ。腰の骨といっても、そのままほっておいてもよい箇所だった。私はかなりショックを受けた。24歳の事故以来、神経質なぐらい気をつけていたのにこんなことが起きるなんて。これから起ころうとすることなど、自分自身で予測をすることもできないし、人の生死も自己の努力ではどうにもならないのだと改めて考えさせられた。

実は私がまだ赤ん坊の時にも、事故に遭っている。兄が私を家の近くの堤防にそり滑りに連れて行き、そりに私を乗せ、思いっきりそりを滑らせた。たまたま堤防の下を通ったトラックに、私はそりごと巻き込まれてしまった。うまくクボミにでも入ったのだろうか、あとかたもなくそりは壊れてしまったのに、私はかすり傷もなく無事だったと知らされている。これらのことを思い返してみても、何かに守られているとしか思えない。でも、こんなどうしようもない人間をどうしてそんなにも救ってくれるのだろうか。救ってくれたのは真の神であるイエス・キリストしかいない。イエス・キリストとはそういうお方なのだろうか・・・。 

         「神は愛なり。」1ヨハネ4章16節

という聞きなれている聖句の「愛」が私の思考をはるかに超えたものであることに思いを巡らされた。完全な愛・・。

クリスマスも近づいたある日、夜眠ろうとすると突然幼い時から犯してきたあらゆる罪が頭の中を駆け巡った。今まで罪だと思っていなかった、心の中の醜い思いも罪となって現された。そしてそれにもかかわらずイエスは私をどこまでも 救い続けたという事実。

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 」エレミヤ書31章3節

「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。」1列王記18章21節

眠れない夜が三日も続いた。「私は罪びとであり、キリストの赦しが必要である。」ともう認めるしかなかった。イエス様の前で悔い改め、私はクリスチャンとしての人生を歩むことを選択した。顔は涙でグチャグチャになった。


「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」2テモテ2章13節


頑固で理屈っぽく素直でなかった私を、なんとねんごろに救いの道に導いてくださったのだろうと何時も思う。

クリスチャンになり色々なことも起こってくるが、イエス様は一つ一つ手を取り足を取るがごとくに行く道を教えてくださる。神の計り知れないご計画の中をただ恵みによって生かされていることを覚え感謝の毎日だ。

中学生の時、憧れを持って観た「復活」の喜び、19歳の時望んだ「キリストにある自由への道」それらを、真実なるお方が 真実であるがゆえに導いてくださる。なんと幸いな道、喜びの道であろうか。内に神が住まわれ、栄光の望みとなってくださる、くめどもつきない井戸を与えてくださった。何と厳粛で厳かなことであろうか。感謝を捧げるのみである。

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」ローマ8章2節

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 ガラテヤ2章20節
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# by powder_snow31 | 2004-07-19 07:10 | 証し

    
思いつくままに
by powder_snow31